茄子四句+1

為すということと無縁や茄子を喰う

茄子煮えてエプロンのままキス終わらず

茄子だけの紫色だ茄子だけだ

夏の恋知らずに茄子は輝けり

*

酒に酔って大好きな茄子に関する俳句もどきを作ったので書き留める。
下は今日の作

*



百万人に雨降る今日の肌湿り

四五人に月落ちかかる踊りかな  蕪村

という句を読んで、人数なら勝てる!(冗談ですからね) と詠んだ。 しかし、百万人という人数は語呂はいいが、梅雨の人数としては半端である。

三千五百万人に雨降る今日の肌湿り

このほうがじっとりとしてよいか……?

絵が売れた

ゴールデン街NAGUNEで今日がついに絵の個展の最終日。
ギャラリーバーにおける個展は辛く楽しい。
なぜなら毎日、店にいて飲んでしまうからだ。
一週間、酒に酒を積み重ね、二日酔いに二日酔いを塗り重ねて、お酒の海を漂ってきた。

茶で済ませる作家もいるだろうが、それは私ではない。
自分の絵で結界を張り、訪ねてくる人は親しい人、懐かしい人、大切な人ばかり。
しかも、中心は私の絵の話題であったりするから、完全に自己中心的な世界において、ブクブクと酒の海に浮いたり沈んだりしている。
深夜に店がはねても、激しく気が揺れ動いていて、別の店でもうワンクッション置かないと帰る気がしない。
そういう怒濤の一週間が終わろうとしている。
また、人間として成長してしまうぜ。

絵は一枚売れた。
前回の個展でもフラっと寄った初対面の人が2枚買ってくれた。
いちおう数千円の値段はつけているから、絵が売れるというのはたいへんなことである。
展覧会をやるたびに単価は倍にしていこうか、……などと不遜なことを考える。
今回、買ってくれたのは、舞踏家で養護学校の先生をしているBさん。
女性のヌードの一枚を「動きがある」といって買った。
舞踏家に動きがあるといわれれば、あるのである。
もう一つ、鳥の絵を指さして、「あれはいらん、うちの生徒の描く絵と同じだから、毎日ああいう絵は見てる。しかし、あんたがどうしてあれを描けるんだ」と言われて、大いに意を強くする。
養護学校の生徒と同じ……私の歩んでいる道は間違っていない。

スープカレーと女主人

ひぃ、やっとメルマガを書き上げる。

昨日はあまり食べないで飲んだので、ひさしぶりに泥酔した。
今朝は妻の機嫌悪く、飯が出そうにないので、松屋スープカレースペシャルという、とても二日酔い向きとは言えない代物を食べた。
流行りのスープカレーを一度食べて見たいと思っていたのだ。

カレー屋で、「カレーはよくご飯と混ぜて食べて」、といわれたことがある。たしかにスプーンでセメントを練るみたいにカレーをよくご飯と混ぜるとおいしい。しかし、好きなので混ぜるのももどかしく食べてしまうことも多い。その点スープカレーはすぐにヒタヒタになる点はいい。

「混ぜて」、といったカレー屋は高田馬場にあって、おいしかったが、行くたびに若い女主人が「お味はいかがですか?」と聞くのが、賛辞を要求されているようでうるさかった。お金を出して食べにいくのが最大の賛辞であって、それ以上は僕にはない。お勘定のときに小声でぼそぼそ「おいしかった」とか、「ごちそうさま」とかいうことはあるけれども。
今ならはっきりとそうアドバイスしてあげるかもしれないけれども、当時は言えなかった。賛辞を求めているのは女主人の無意識であって、本人は気づいていない。サービスか、参考にするために聞いていると思っているようであった。いかにもインド帰りという風情で、いつも微笑を浮かべていたけれども、その奥になにか神経質なものがあった。
そんなわけで敬遠していると、その応対のせいかどうか、数か月で潰れてしまった。もったいないことをした。

で、結局、今回のスープカレーというものは……想定の範囲内の味。おいしいと言えばおいしいけれども、トロリと粘度のあるカレーよりおいしいとは言えない、というのが僕の結論。
松屋でだけ食べて結論を出してしまいました(笑)。
これはかつての「もつ鍋」と一緒で一過性のブームで終わるだろう。
別にスープカレーは終わってもいいが、あれほど隆盛を誇った「もつ鍋」が東京ではほぼ壊滅してしまったのは残念だ。(もつ鍋をどうしても喰いたくなって、先日ネットで探して池袋のお店に行ったが、いま一、というか、いま二くらいであった。新橋においしい店があると聞く)

松屋のチキンカレーは数年前おいしかったことがある。最近はそんなに感心しない。鶏の質が落ちたのか。ちなみに松屋の目玉焼きは味が薄くてまずい。もう少しいい卵を使ってもらいたい。 僕はカレーは毎食食べてもいい、というくらい好きだったが、その感覚は少し薄れてきた。これは年齢的なものもあるだろうが、太ることを考えると「おかわりっ!」が言いづらくなったからだろう。やはり、カレーは「おかわり」がうまい。

(これを読んでカレーを食べたくなった人がいたら、原稿として成功と言える……)

病院のユリイカ/番外【結局、なんの病気か】


知り合いにこの頁を教えたら「結局何の病気かわからない」という声が多いので簡単に書かなくてはいけない。
しかし、じつは僕にも短く言う言い方がよくわからない。

病名的には「心不全とナントカ」と言われたような気がするが、自分的には、「睡眠中無呼吸症による慢性的な酸素不足が原因による諸症状」というのが長いわりには短めの説明かな、と思っている。
その諸症状というのを説明するとまた長くなって、結局なんなの、ということになるので、これで説明を終わる。

……のはあんまりかもしれないが、短く全てを包括するような病名はない。 それは人生に似ている。

なんちて。

病院のユリイカ/番外【電気焼き】

本日は耳鼻咽喉科の担当[ハンサム風](と私は秘かに呼んでいる)医師ではなく、別の人間が診た。
担当ではないから少しソフトではないかと思ったが、むしろハードだった。 入院中も診てもらったことがあるこの医師は、話し方や顔つきはもの柔らかだけれども、人の顔を見ると「手術は明日でしたっけ?」と聞く。「今日はいいお天気で」というのと同じに、手術の話題も単なる挨拶と化しているのだろう。
また「肉芽を焼きましょう」というから、薬品かと思ったら、金属の尖端を当てる。電気でジリジリと焼くのだ。ジリジリとした熱というより痛みを感じ、「いちちっ」と顔をしかめたら、「麻酔うちましょうか」と薬品と注射を持ってくる。
注射針の尖端を眺めながら、それもいやだと思ったが、麻酔なしで焼かれるよりはいい、と思って黙っていた。
病院というところはじつに野蛮なところである。
喉だから処置している様子は自分では見えないが、注射針を刺されたり、焼かれたりは、想像するだにいやなもので、ほんとうに脂汗をかいた。
またボスが来て、セッシで糸を抜いてくれたようだ。私の身体は体質的に糸に拒否反応を示しているらしい。「溶ける糸」だというが、そう簡単には溶けないらしい。だいたい溶けるから拒否しているのかもしれない。溶けるから抜糸もアバウトにしているのか。
抜糸が簡単なのはそのときはうれしかったが、こんなことになる可能性があるのなら、もっとていねいにしてほしかった。……というのは、詮無い愚痴である。 「これはだいぶかかるんでしょうかね?」と医師に聞くと、2週間から1か月くらいかかるケースもあるという。げげげ。思ったより長い。「悪循環で……」と医師は言ったが、どういう悪循環かは聞きそびれた。

ゴッホ展に行く

ゴッホ展、明日までということで混んでいる。
昨日は午後6時半に行って「80分待ち」ということで敢えなく引き返す。
本日は午前9時半に行く。開館10時だから、最低30分以上の待ちは覚悟していたが、大人気のせいだろう、なんとすでに開館していて、10分と待たずに入れる。よかった。

ゴッホのオリジナルを見て、ハンマーで殴られたように、魂をガガーン!と激しく揺さぶられた。……というのを秘かに期待していたが、そういう現象は一切なし。人が多すぎるせいで落ち着かない。もう少しよい環境で出会ってみたい。

正直な話、今日見た印象では、たとえば、モンマルトルの丘や、無名画家の展覧会で見たら、たとえ何千円でも、この絵を買おうとは思わないだろうな。とくに初期のものは。巻き添えにして悪いが、今日来ていた大部分の人もそうではないか。「有名なあのゴッホ」というフィルターを通して、よいところを探しているのであって、そういう名前や世間が認めた価値を引き剥がして、自分で金を払う価値を見いだせる人間がどれほどいるかな。
いない、と言いたいのではない。ただ、一時間以上も並ぶ熱意があるなら、もっと無名の芸術を同じように愛せよ。食えない新人の作品を自分の眼で探して買ってやれよ、と思う。常設館はガラガラでよかった。ツグちゃん(彼の自画像の一枚を見た日から、藤田嗣治は我が家でこう呼ばれている)の作品、じっくり見る。

帰りの時間には、地下鉄に「ゴッホ展 2時間以上待ち」と表示があった。

病院のユリイカ/番外【オキシフル】

再縫合とかはなかった。傷口に糸が残って炎症を起こしているという。それがカラオケとあいまってかすかに傷口を開いた原因らしい。
(といっても読者にはなぜ喉に切り口があるのか説明していないと思うが……本編を僕が書き続ければいずれわかるであろう。いつのことやら)
耳鼻科の責任者の医師も出てきてのぞき込み、セッシ(ピンセットのことを最近こう呼ぶのか?)をクイクイと傷口に突っ込んで、「ほら、ここに糸あるわ」「でも、奥すぎて抜けませんねえ」とSという担当医と話しながら、痛い痛い処置をする。痛いといっても、痛がりの私が声を出さずに耐えられる程度ではある。
「ま、焼くんだな」「いつも焼いています」
「焼く」というのは、薬品で「焼く」のである。ということは、炎症を酸化させる、ということだろうか。最初聞いたときには、その語感にひぇぇ、と思ったが医師に説明を求めることはしなかった。「焼かれる」とけっこう沁みる。
子どもの頃に転ぶとオキシフルという液体を消毒のために塗られたことを思い出す。あれもジンジンと沁みたが、これで消毒されているんだ、という安心感もあった。オキシフルと赤チンというのは、子どものいる家庭には常備されていたものだが、今は赤チンもオキシフルも姿を消したなあ。

結局、しばらく毎日通うこととなった。「それとも、5日ほど入院しますか? 抗生物質を点滴すればすぐ治りますよ」「ま、毎日通います(この程度で入院なんて冗談でしょ)」
新しい抗生物質を処方された。以前から出ているクラリスと重ねて飲めということだ。
「この炎症はほうっておくと深刻なことになるのですか?」「まあ、だんだん悪化すると口がどんどん開いてきて、縫い直しになりますね」(ひぇぇ)
「縫い直し」という言葉に私の心はぴくぴくと震えた。しかし、Sの言葉には微妙な脅迫や誇張が含まれていることがある。私を従順な患者として調教しようとしているのだ。「縫い直し」の危険を正確に評価することは難しい、と私は思った。