行動なき「行動」

メルマガの読者の方の方からいただいたメールに、用件の他に「心身の調子が悪い」と書いてあった。
文の調子も何かヘンだ。そのヘンな感じには見覚えがあった。以前に文芸関係のWEBに作品を投稿しては、ボロカスにけなされて、神経を病みかけていた人の質問メールに似ている。
「ネットのやりとりに深入りしすぎていませんか?」と、余計なお世話だと怒るかもしれない、と思いながら返事を書いた。これが図星だったようで、「短い文でそこまでわかるとは! メールを読んで某サイトの出入りをやめました」、という報告をいただいた。


ネットは、心身に悪い。とくに心に。何時間でもタダで(定額なだけだが)遊んでいることもできる。
そこをさまよっているうちに、心身が遊離して、エクトプラズムのように身体からズルズルと中身(精神)が半分くらい吸い出されたような感覚になることがある。
そして、ネット上のやりとりを見ていると、間違った発言をした人間や、無知な人間に対しては、その誤りを正すだけではなく、感情的な圧力をかける。そういう劣った人間は人格や存在を否定されても当然だ、黙っていろ、と言いたげな発言も多い。人の心に焼きごてをあてるような短い罵倒辞に熟達した人々がいる。
他人の欠点には敏感でも、自分自身のふくれあがった巨大な卑しさ、醜さ、浅ましさは目に入らない人たちがいる。
そのような人々はいつでもいて、誰の心にもあるだろう、村社会の中にもいたが、デジタルの時代になってもそれは変わらない。むしろ、ネットという匿名性の保証された場所では、歯止めが利かない。
そういう世界をうろうろと長時間さまよっていては、心が荒むのも当然なのである。


そのような警告を、心理学者はもっと大きく発するべきだろう。あるいは、発していても、マスコミが大きく取り上げることがないだけかもしれない。もっとセンセーショナルな事態が現れてから、あれこれと騒ぐことになるだろう。
また、たとえ否定したところで、大きな流れはすぐには変わらない。
僕自身にしたところで、すでにネットがない生活は考えられない。メールが不通になったりすれば、一つの感覚器官を失ったような気持ちになる。


今朝、ネットにはまると、心が変な状態になるのは何故だろう、と改めて考えた。
ネットでの活動は、行動ではない「行動」なのだ。
バーチャル(という言葉も最近耳にしないが)な世界で活動するとは、体を動かさない、心も部分的にしか使わない、頭脳だけを過剰に使うことである。
このようして心が過剰に頭脳化していく。
詳細は省くが、心はもっと頭脳と身体の中間の存在であるべきなのである。


ネットで物を買うときは、店にいく必要がない。財布をひらく必要がない。
そうして、商品を手でとって吟味することがない。
買うものの多くは大量生産品なので、均質である。
たとえば、i-podのような商品は、WEB上の写真と評判だけで買う人も多いだろう。
野菜を買うときのように、色、形、触感、匂い、重さなど、五感を通じて入ってくる情報がない。
モノと触れ合わない、体も動かさない。それでいて何かしらの活動をしている。
マトリックス」という映画が比喩的に描いた世界にもう僕らは突入している。
人間の機能は、使わないと日々退化する。
そう考えると、ネットが人間に与える影響がシンプルにわかってくる。


しかし、ネットから離れることはできない。
バランスをとるしかない。
僕は今日もヨガに行く。