小泉芸術を鑑賞する会

日本人はみんな小泉が好きなので、少数派はいかにも具合が悪い。
そこで、僕としても宗旨変えをして、「大衆操作」を一種の芸術活動という美的観照の世界においてとらえることとした。今後、非常に希有な景色が見られるであろう。


今回の靖国参拝の時期と方法についても、たいへん微妙な配慮がなされている。
選挙前ではなく、もちろん8月15日でもなく、選挙後の興奮がややさめた頃、というあたりに小泉の才能と計算がある。以前も、8月15日よりずっと前に抜き打ち的に行ってみせたことがある。
毎年8月15日に行くのではなく、独特のリズム感、あるいは、リズムのはずし方をもっているのはさすがである。


靖国神社、というのは、巨大ではあるが、カルトである。
本来古神道というものは、太陽や風、自然のすべてを崇めるアニミズムに発している。
キリスト教にもカトリックもあれば、カルトもあるように、物事には本筋と脇筋がある。
戦時中の国家神道、皇家神道からしてすでに末流である。
靖国神道の系譜の中ではたいへんに歪んだ末流の末流である。


私はここで「靖国からA級戦犯をはずす必要はない!」と主張する。
しかしながら、神道のふりをするなら、せめて、戦争犠牲者をすべて祀るべきである。
第二次大戦の死者だけではなく、今なお故なく殺されているイラクの市民をも祀ったほうがいい。
……そうしたところで、まだ私にとっては神道ではないが。
神道においては、死はケガレであったはずである。
そもそも神社は死者を祀るようにはできていないのである。
戦死者は死者ではなくて、神になる?
他の戦争犠牲者はならないでただの死者?
そういうふうに死者を差別するのは、人間であって、神ではない。
しかし、それを敢えて選別したところに、靖国のさまざまに利用される存在理由がある。
私が靖国をカルトである、という所以である。

このような複雑なカルトを、海外の悲鳴にも近い抗議を受けながら、大衆操作芸術の中にたくみに取り込んでいく、というあたりに小泉の大胆で鮮やかな才能と志向性を見ることができる。
一方でアメリカの走狗、一方で国粋主義、という一見矛盾するテーマを一人の政治芸術家の人格の中に統合しているというところにスケールの大きさがある。
大衆は彼に愛着を持つよりより崇敬すべきである。


また公務員の2割削減、という新聞の大見出しも、大きく大衆の心の琴線を震わせたことであろう。
しかし、この削減目標は純減ではなくて、それとは別に省庁は人員増の要求を出して埋め合わせることができる仕組みだ。実際はそんなに減らない、ものらしい。
しかも、5年で1割削減という目標はすでに決定済みで、そこに「10年で2割!」という大声を出したわけだ。
改革をやっている感じを出しつつ、本質的にはほとんど面倒なことは何もしない、というのは、道路公団以来の小泉のすぐれた手法である。
やがて折りをみて、増税改憲である。
既得権を持った連中は温存して、無知で無力な国民だけをじわじわとしめつけていく。
これは来るべき階級社会への早道と言えよう。
そのときにいちばん踏みつけにされる人間たちが、自分はなんとなく勝ち組の側にいる、あるいはいれるようなつもりでいる、というのはすばらしい操作である。彼らは決して怒りの矛先を権力に向けることなく、弱い者をいじめることでうっぷんをはらし、なおかつそのような一方的なリンチに匿名でくわわることに正義感の満足や、知的優越感すら感じている。
すばらしい世界である。
大衆操作芸術というものが、小泉以前から積み重ねられて、完成期に入ったということであろう。先人たちの努力にも敬意を払わなければならない。


朝三暮四という言葉がある。
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%C4%AB%BB%B0%CA%EB%BB%CD&kind=jn

こんなバカなトリックにひっかかる猿はいない、と思っていたが……