アサヒ芸能の小泉批判はけしからん♪

今日、ひさしぶりに喫茶店で「アサヒ芸能」という週刊誌を読みましたが、小泉を批判する論者が多くてけしからんですな。
曰く、アメリカ産牛肉の輸入再開をして、日本人の脳味噌が今以上にぷよぷよになったらどうなるのか?
以前、不況対策で減税をしたときに、企業と高額所得者とサラリーマンの減税をした。今回はサラリーマンの減税だけを元に戻す云々。
高田文夫は、小泉の神社の参拝の仕方がなっていない、と指摘しています。
柏手も打たないんですな。
しかし、参拝の礼がなっていなくても小泉は平気なんです。
礼を知らないことが現代的なのです。
小泉はアイドルだから。
なんてたってアイドル。
アイドル歌手が「うちの母が」と言ったらおかしいでしよ。
「うちのおかあさんがぁ〜」とアイドルは必ず言うんです。
それと同じことなのです。


その他、この雑誌には、小泉嫌いが勢揃いしています。
しかし、論が小さい小さい。日本人はもっと大きいですよ。
小泉首相は、イラク戦争の内実がボロボロと漏れて、苦境に立ったブッシュを救うために立ち上がったのです。
小泉は友を救うためには、戦争の資金も国民の脳味噌も惜しげなく差し出すのです。
その義侠心を見習うべきです。
そして、国民も屠所の羊のように従順な眼をして小泉に従います。
日本人は誰も牛丼を食べなくなったりしません。
そんなことをしたところで、牛のエキスは何に入っているかわかったものではないし。
安全な食品なんて、もはやなくなるのですから、考えるだけ疲れます。
誰も5年も10年も先のことなんて考えません。
テレビやインターネットを見て、今日を楽しく生きればいいのです。
五年後くらいに狂牛病が発症した人がいたところで、その頃には誰が責任者かなんてわかりません。
……ということは、今も責任者はいないということですが。
発症した人がいたら、国は裁判で、ゆっくり科学的因果関係などを争って引き延ばし、負けたら、お金を払えばいいのです。
どうせ税金ですから。
えーえーどうせ税金です。湯水のように使ってください。


もちろん、小泉は歳出の節約もまじめに考えています。
障害者自立支援法」の法案が通りましたな。
これは障害者に支払っている金の蛇口をきゅっと閉めようという法案で
無駄な税金の使い道をカットして、障害者の自立を促進する、という一石二鳥の法案でげすな。
さすが、惜しげなく金を使うところと、締めるところのメリハリがすばらしいです。


アメリカ産牛肉の輸入再開と、この障害者自立支援法が、改造内閣の顔ぶれ発表と同じ日に
可決されました。ピストン西沢の「音楽の偶然」を思わせるすばらしい偶然の日程ですね。
その日のニュースは改造内閣の話題一色。
テレビでは、「ポスト小泉を占う」という分析がどの局でも花盛りでした。
高度な憶測が飛び交い、視聴者の知的興奮を誘いました。
このような番組が政治を身近なものにするのですね。
さすが日本人は知的で政治的関心が高い。
誇りを持っていいでしょう。

行動なき「行動」

メルマガの読者の方の方からいただいたメールに、用件の他に「心身の調子が悪い」と書いてあった。
文の調子も何かヘンだ。そのヘンな感じには見覚えがあった。以前に文芸関係のWEBに作品を投稿しては、ボロカスにけなされて、神経を病みかけていた人の質問メールに似ている。
「ネットのやりとりに深入りしすぎていませんか?」と、余計なお世話だと怒るかもしれない、と思いながら返事を書いた。これが図星だったようで、「短い文でそこまでわかるとは! メールを読んで某サイトの出入りをやめました」、という報告をいただいた。


ネットは、心身に悪い。とくに心に。何時間でもタダで(定額なだけだが)遊んでいることもできる。
そこをさまよっているうちに、心身が遊離して、エクトプラズムのように身体からズルズルと中身(精神)が半分くらい吸い出されたような感覚になることがある。
そして、ネット上のやりとりを見ていると、間違った発言をした人間や、無知な人間に対しては、その誤りを正すだけではなく、感情的な圧力をかける。そういう劣った人間は人格や存在を否定されても当然だ、黙っていろ、と言いたげな発言も多い。人の心に焼きごてをあてるような短い罵倒辞に熟達した人々がいる。
他人の欠点には敏感でも、自分自身のふくれあがった巨大な卑しさ、醜さ、浅ましさは目に入らない人たちがいる。
そのような人々はいつでもいて、誰の心にもあるだろう、村社会の中にもいたが、デジタルの時代になってもそれは変わらない。むしろ、ネットという匿名性の保証された場所では、歯止めが利かない。
そういう世界をうろうろと長時間さまよっていては、心が荒むのも当然なのである。


そのような警告を、心理学者はもっと大きく発するべきだろう。あるいは、発していても、マスコミが大きく取り上げることがないだけかもしれない。もっとセンセーショナルな事態が現れてから、あれこれと騒ぐことになるだろう。
また、たとえ否定したところで、大きな流れはすぐには変わらない。
僕自身にしたところで、すでにネットがない生活は考えられない。メールが不通になったりすれば、一つの感覚器官を失ったような気持ちになる。


今朝、ネットにはまると、心が変な状態になるのは何故だろう、と改めて考えた。
ネットでの活動は、行動ではない「行動」なのだ。
バーチャル(という言葉も最近耳にしないが)な世界で活動するとは、体を動かさない、心も部分的にしか使わない、頭脳だけを過剰に使うことである。
このようして心が過剰に頭脳化していく。
詳細は省くが、心はもっと頭脳と身体の中間の存在であるべきなのである。


ネットで物を買うときは、店にいく必要がない。財布をひらく必要がない。
そうして、商品を手でとって吟味することがない。
買うものの多くは大量生産品なので、均質である。
たとえば、i-podのような商品は、WEB上の写真と評判だけで買う人も多いだろう。
野菜を買うときのように、色、形、触感、匂い、重さなど、五感を通じて入ってくる情報がない。
モノと触れ合わない、体も動かさない。それでいて何かしらの活動をしている。
マトリックス」という映画が比喩的に描いた世界にもう僕らは突入している。
人間の機能は、使わないと日々退化する。
そう考えると、ネットが人間に与える影響がシンプルにわかってくる。


しかし、ネットから離れることはできない。
バランスをとるしかない。
僕は今日もヨガに行く。

小泉芸術を鑑賞する会

日本人はみんな小泉が好きなので、少数派はいかにも具合が悪い。
そこで、僕としても宗旨変えをして、「大衆操作」を一種の芸術活動という美的観照の世界においてとらえることとした。今後、非常に希有な景色が見られるであろう。


今回の靖国参拝の時期と方法についても、たいへん微妙な配慮がなされている。
選挙前ではなく、もちろん8月15日でもなく、選挙後の興奮がややさめた頃、というあたりに小泉の才能と計算がある。以前も、8月15日よりずっと前に抜き打ち的に行ってみせたことがある。
毎年8月15日に行くのではなく、独特のリズム感、あるいは、リズムのはずし方をもっているのはさすがである。


靖国神社、というのは、巨大ではあるが、カルトである。
本来古神道というものは、太陽や風、自然のすべてを崇めるアニミズムに発している。
キリスト教にもカトリックもあれば、カルトもあるように、物事には本筋と脇筋がある。
戦時中の国家神道、皇家神道からしてすでに末流である。
靖国神道の系譜の中ではたいへんに歪んだ末流の末流である。


私はここで「靖国からA級戦犯をはずす必要はない!」と主張する。
しかしながら、神道のふりをするなら、せめて、戦争犠牲者をすべて祀るべきである。
第二次大戦の死者だけではなく、今なお故なく殺されているイラクの市民をも祀ったほうがいい。
……そうしたところで、まだ私にとっては神道ではないが。
神道においては、死はケガレであったはずである。
そもそも神社は死者を祀るようにはできていないのである。
戦死者は死者ではなくて、神になる?
他の戦争犠牲者はならないでただの死者?
そういうふうに死者を差別するのは、人間であって、神ではない。
しかし、それを敢えて選別したところに、靖国のさまざまに利用される存在理由がある。
私が靖国をカルトである、という所以である。

このような複雑なカルトを、海外の悲鳴にも近い抗議を受けながら、大衆操作芸術の中にたくみに取り込んでいく、というあたりに小泉の大胆で鮮やかな才能と志向性を見ることができる。
一方でアメリカの走狗、一方で国粋主義、という一見矛盾するテーマを一人の政治芸術家の人格の中に統合しているというところにスケールの大きさがある。
大衆は彼に愛着を持つよりより崇敬すべきである。


また公務員の2割削減、という新聞の大見出しも、大きく大衆の心の琴線を震わせたことであろう。
しかし、この削減目標は純減ではなくて、それとは別に省庁は人員増の要求を出して埋め合わせることができる仕組みだ。実際はそんなに減らない、ものらしい。
しかも、5年で1割削減という目標はすでに決定済みで、そこに「10年で2割!」という大声を出したわけだ。
改革をやっている感じを出しつつ、本質的にはほとんど面倒なことは何もしない、というのは、道路公団以来の小泉のすぐれた手法である。
やがて折りをみて、増税改憲である。
既得権を持った連中は温存して、無知で無力な国民だけをじわじわとしめつけていく。
これは来るべき階級社会への早道と言えよう。
そのときにいちばん踏みつけにされる人間たちが、自分はなんとなく勝ち組の側にいる、あるいはいれるようなつもりでいる、というのはすばらしい操作である。彼らは決して怒りの矛先を権力に向けることなく、弱い者をいじめることでうっぷんをはらし、なおかつそのような一方的なリンチに匿名でくわわることに正義感の満足や、知的優越感すら感じている。
すばらしい世界である。
大衆操作芸術というものが、小泉以前から積み重ねられて、完成期に入ったということであろう。先人たちの努力にも敬意を払わなければならない。


朝三暮四という言葉がある。
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%C4%AB%BB%B0%CA%EB%BB%CD&kind=jn

こんなバカなトリックにひっかかる猿はいない、と思っていたが……

乳首が四つ

キャサリン・ゼタ・ジョーンズというのは、いい女だなあ。
好きなタイプ。『エントラップメント』で初めてみた。映画自体は、大して面白くもなかったような気がするが、ゼタ・ジョーンズがぴったりした衣装を着て、レーザーの警報装置をくぐる練習をするときの肢体の美しさは焼き付いている。


今、吉行淳之介の色道に関する対談集を引っ張り出して読んでいるが、そこに乳首が四つある女の話がでてくる。もともと人間の女にも動物のように四つあったらしい。そういう女は野性的でパワーが強く、非常によろしい、と書いてある。僕もさる女性に見せてもらったことがある。退化してイボの小さいのくらいにしか見えなかったけど、たしかにあった。
あれもいい女だった。


ゼタ・ジョーンズも乳首四つあるような気がする。


昨日、やはり彼女主演の『ディボース・ショウ』をDVDで見た。この映画の彼女が今までみた中では、いちばんいい。
しかし、この邦題はわからん。原題がわからなかったり一般性がないから、邦題をつけるんだろうに。
こういうタイトルをつけたり、変な方向に頭を使う連中がいて、それをチェックする先輩、上司もいない日本という国は、やはりすでに沈没しているのだと思う。

おバカな買い物

まえちゃんは、安くて貧乏な倉庫会社の「社長」。
法人化もしていないのに、パートなどの従業員には社長と呼ばせている。


まえちゃんは、買いました。
「手動シェィバー」。
手でクイクイと絞るようにすると、刃が回転するらしい。
髭を剃っていて、シェイバーの充電の切れかかったときの、イヤな感じを思い出す。
「それって痛くねー?」
「そうなんだよ、はさまって痛いんだ」
「ひぇーっ。バカでー」
というわけで、すぐ使うのをやめたそうだ。そりゃそうだろっつーの。


安売り屋で千円もしなかったそうだから実害はあまりないが、
まえちゃんは、ときどきいまどき貴重な「くだらなさ」を供給してくれる。
そのまま変わらず、永遠にくだらなさを僕にサプライしつづけてほしい。

パスワード地獄

記憶力は、人間精神の根源能力であるらしい。
記憶力は原料として、より高度なさまざまな精神力に変換される、という意味のことを、ルドルフ・シュタイナーは言っていたと思う。
アトランティスの時代には、大気は今よりも濃厚で、エーテルに満ち、人類は記憶力のエネルギーで飛ぶ機械を持っていた、ともいう。
オカルティックなビジョンは、詩やファンタジーよりも強烈だ。当然である。


ところで、記憶力の衰えがなかなかひどい。
いや、昔からよくなかったのだが。
それにしても。


これには、いくつかの解き方がある。
1.生命力、精神力全体が衰えている
2.精神力の回路が多岐化して、全体的に消費が拡大している。
3.年齢を経れば、細かい記憶ではなく、もっと全体をぼんやり見る力を発揮すべきだ、という人間のあり方
4.現代社会では、入力されてくる情報が多すぎる!


細かい説明は省く。以上の要素はそれぞれ当たっているだろう。


「パスワード地獄」という言葉を何かで見たときには、ほっとした。
同じことで苦しんでいる人がいる。
みんな平気かと思っていた。


ネット内でいったいいくつのパスワードを登録したのだろう。
なるべく簡単で単純なのを使い回そうと思っていたのがいけなかった。
最低の文字数が違うのである。
4桁のは決めているのがあるのだが、6文字以上とか指定があって、ほかはけっこうバラついてしまった。
うう…
そのときは、これでいい、と思うが、何ヶ月も何年も経って必要だ、と言われたりする。バスワードの必要は忘れた頃にやってくる。そのときには完全に謎になっている。


銀行カードでも誕生日はやめろ、電話番号はやめろ、という。
その上、なるべく同じ番号を使うな、と。


俺はパスワードは嫌いだ!
大嫌い。


ネットバンクのパスワードを忘れた。金がからむだけに、郵送で教えるという。
ところが、その間に引っ越してしまって、まず、住所登録の変更をしなくてはいけない。
住所変更も、ファックスで、保険証のコピーを送ったり、なんだかややこしい。
ところが、その手続きも止まってしまった。
なんだか止まった理由も忘れた。
2万ばかり入っていると思うので、いずれやらなければいけないけれども、面倒だ。放ってある。


なんかそういう事務や管理というのは、僕にとっては下賤なこと、苦手なこと、やりたくないことに属しているのだけれども、便利になったように見える世の中で、どんどんそういうことが生活に侵入してくる。


記憶力の悪い人間には、鬱陶しい世の中である。

「リゾート&隠居村」の理念と、文字によるラフな設計図

思いつきではなく、もう7.8年前もから頭の中に住みついているイメージなので、書いておく。僕は晩年はこういうところで暮らして死ぬのが憧れなのです。近頃世の中トゲトゲしくてこらえ性がないからね。こういう人との距離はめんどうくさくてゾッとするという人もいるでしょう。
まだ夢想に近いレベルだが、いつか実現したい。
内容に共鳴し、実現に力を貸せるかもしれない、という方がいたら、ぜひご連絡を。


■基本理念
自然の中に人間の生死を置く
宿泊にも、住居を買って晩年を過ごすにもよい
人と人との基本的な距離感を設計する
集合的である利便性の長所(経済性、人間関係など)と、個の尊重を同時に実現する


■場所
豊かな自然がある。災害の危険の少ない場所。湖か川か海、温泉などの水がすぐ近くにあることが望ましい。交通の利便はやや低くてよい。拡張性のある広い土地でなければならない。そして、土地と建物は、安く提供されなければいけない。

■住居
自然素材、木、土、石、竹、紙、綿、金属、などの素材性を活かした質感。日本古来の住居の知恵と美意識を取り込みつつ、無国籍で。
基本的にバリ島のリゾート・ヴィラのイメージ。
風に揺れ、光にみちた木々の輝き。光と風が居るだけで心を和ませるごちそうとなる。
個々の家は生け垣に囲まれ、視界は外界から完全に遮られている。
そのようにプライバシーは確保されながら、小道によって広場などの共有施設につながっている。
同時に数戸が着工されるので経済的。仕様は各戸で異なるが、素材のいくつかはモジュール化されている。個別の設計変更はできるが、あまり統一感を損なう意匠はとくに外観は許されない。

■共有施設
広場 
火を使うことができる。人々が集ったり、憩う場所。住民のパーティやワークショップなどもできる。またかまどを置いて、飯、味噌汁などを共同で作ることもできるであろう。

集会室
雨天の広場。音楽の演奏や演芸、カラオケなどもできる防音室とする。

プール
ウォーキングができる温泉プールがあるのが理想。

共同農園
農作業は強制ではなく好きな人がする。しかし、働かない人にも恩恵があるであろう。

(これらの共有施設の使用については、管理方法、話し合いのルールなどもあらかじめ設計しておくこと)

■サービス
基本的に身体が利かなくなっても住める医療・介護・給食サービスを見込んでいる。とくに介護サービスは、数家族でシェアするメリットは大きい。
しかし、それにはある程度の規模が必要。
また外来者の宿泊にまつわるサービスも提供される。
駅までの交通、庭仕事、清掃、買い物など、各戸によって必要なサービスを整備する。

■通信
通信インフラに関してはあらかじめその時点で最善のものを準備する。
またこの「村」全体の連絡、交流や話し合いのためのサイトを用意する。
食事他の予約もこれでできる。
衛星放送の共同アンテナもあり、集会室では予約によりテレビが見られる。

■住人
ただお金を出すだけでなく、このような趣旨を理解、共鳴した人に限る。
ネットでやりとり、宿泊を重ねるなどの形で次第にとけ込むことが望ましい。

■売価
3万円の土地を共有部分を含めて100坪負担したとして、300万円。インフラ、造成にもう300万。建物立てて、利益も出して、2000〜3000万くらいか。高級養老院よりはずっと安い。
あるいは家賃管理費を負担して住むこともできる。
■娯楽・イベント
ヨガなどの体操教室
絵画・書道などの芸術教室
夜は火を見たり、月や星を見ながらの広場での飲み会
ダンスパーティ
収穫祭
などなど。
身体を動かすことと、芸術を中心に、季節柄のお祭りが企画される。

■管理
管理会社による管理と、住民による管理がぶつからない別のレベルで進行する